人生仮免許運転中(2006年5月4日公開、2010年06月03日23:04:48第4回のリニューアルオープン)

たとえ仮免だったとしても、自分の道を進むことができるのは、嬉しいことです。
普段、そんなことには考えないかもしれませんが、何かの理由で進むことができなくなったとき、そういうことに気付くものです。また、自分のとおってきた道を振り返ることで、気付くこともあります。
これからどんな道に進むべきなのか、どんなことが待ち構えているのか、不安になることは多いですが、前向きに前向きに生きていきたいものです。
不意に人生を振り返ると、いろいろなことが思い出されるのであります。恥が特別に多かったとは思わないのでありますが、しかしそれなりにあったり、思い出すと笑ってしまうことがあったり、悲しいことがあったり・・・そんなこんなで人生を振り返ることは結構楽しいということに気付きましたので、気の向くままに誇張、脚色、嘘をおりまぜつつ、人生を語ってしまうのであります。

幼いころは極めて健康的でした。運動も勉強も芸術もなんでもできる方だと思っていました。運動では野球、サッカー、相撲を近くの公園でやっていたことを覚えています。また、水泳も市内のプールに通って頑張っていました。中でも野球は得意で、周りがどう思っていたかはともかく、打つのも守るのも上手い方だと勝手に思っていました。
勉強も好きでした。というより、授業で発表するのが好きでした。何か先生が質問すると、すかさず手をあげるタイプでした。芸術も好きで、正確には好きではなかったかもしれませんが、ピアノと絵を習っており、週に1回ずつ、真面目に通っておりました。

しかし、小学校2年生のときの誕生日、すなわち、7歳になる誕生日に病気になりました。いつものようにプールに行った後、帰りの送迎バスの中で、頭が痛い、気持ちが悪いということに気付きました。ただならぬ痛みだったので、帰宅後すぐに病院に連れて行ってもらいました。一つ目の病院では、その病気が何だかわからなかったからか、すぐに他の病院に転送されることになりました。
やたらと頭が痛く、その頭の痛さが原因で吐き気もありました。また、手足が痙攣したり、時には硬直して、歩くことや動くことも自由にできませんでした。脳圧というものを測定すると、正常な人よりかなり異常な値を示していたようです。こういった症状があったものの、当時のその病院の設備による検査では異常は見つからず、精神的なものでしょう、という結論になり、特に治療を行わないまま様子をみることになりました。入院して一週間ほどたったころ、目の調子がおかしいということに気付きました。病気になる前は左右ともに視力はよかったのですが、あらゆるものが横に二重に見えるようになったのでした。煙突や鉛筆、指など、細いものは一本でも二本に見えてしまいました。顔など横に広いものは二つのものが重なって見えました。何かを掴むときにお手つきをすることが多くなりました。痙攣などで歩くのはもともと大変でしたが、視力も原因となりさらに歩きにくくなりました。そしてこの、ものが二重に見える現象は徐々に視力を奪っていくようでした。
一ヶ月ほど入院しても回復する傾向は見られず、視力は日々落ちていきましたので、どういうことなのか、家族も医者も相当に困惑していたようでした。そして、両親は私を東京の病院に転院させることにしました。病院側は最新設備、最新医療を豪語していたので、転院について相当に難色を示したようですが、壮絶な口論の後、転院が認められたようでした。
東京の病院についてすぐ、私の病名が明らかになりました。数万人に一人という極めて特異な病気だとのことでした。そしてその日のうちに手術が行われました。


書きかけの原稿
趣味

ご意見、ご感想、お問い合わせ、お願い、ご提案、ご相談、ファンレター、応援メッセージ、励まし、苦情、いやみ、皮肉、怒り、お叱りがございましたら、お気軽に、
メール送信フォームからメールを送るか、
書き込みを待っているのだぴょん!掲示板に書き込みをするか、
どちらかお好きな方法でご連絡お願いします。

●大山崇のホームページの利用について
大山崇のホームページのカウンタを増やす!!大山崇のホームページ